ざっくり簡単に分かる!
『伊達政宗』1567年~1636年
片目を失った内気ボーイ…しかし成長と共に恐れ知らずの伊達者イケメン☆へ大成長!
目次
ざっくり「伊達政宗」の生涯!
片目の内気な少年から…
伊達政宗は1567年9月5日に出羽国(山形)に伊達家第16代当主として生まれます。しかし5歳の時に天然痘にかかり右目を失明してしまい、内気な性格がそのせいもあってより消極的な性格になってしまい、母親はそんな政宗より弟の方を贔屓するようになっていました。
けれど政宗の父、輝宗は政宗を大事にして政宗に先生を呼んで沢山勉強をさせたりしており、その結果政宗は18歳で家督を継ぎ、(因みにこの時本能寺の変から2年後の事)ここから政宗は東北の地で沢山の大名達との大乱闘に切磋琢磨することになるのでした。
肝が据わってる⁈二度の白装束!!
政宗が東北の地で色んな大名達と戦ってる時、一方で「本能寺の変」で織田信長が死に、信長に変わって天下は豊臣秀吉のものとなっておりました。
↓天下を取った秀吉がやった事って?
天下を取った秀吉はこれ以上各地で戦いが起きて自分の地位を奪われないように色んなルールを作り、その中に勝手に大名同士で戦っちゃダメ!という『惣無事令』というルールを出しますが、それを関東にいる後北条氏が破ったので、秀吉は政宗に「後北条氏を倒しに行く『小田原征伐』からお前も着いてきな!」と言いますが、政宗は父の時代から後北条氏と同盟関係にあったのでギリギリまで悩んでしまい、結局戦に参加するのが遅くなってしまいます。
その結果、政宗は「お前、わしを裏切るつもりだったな?!」と秀吉に幽閉されてしまいます。しかしそんな大ピンチの状況で政宗は、尋問をしに来た秀吉の部下だった前田利家に「千利休にお茶習いたいなぁ~」なんて言ってのけ、さらに秀吉の前に自害する際に着る白装束を自ら着て現れるなどして秀吉を驚かせて、その心意気で政宗は死を免れるのでした。
因みにその後、奥州(大体今の東北らへん)も秀吉が自分の都合の良い形で人材の配置換え『奥州仕置』をしたのですがそれに腹を立てたその地に元々いた大名が激怒し一揆が勃発!その怒りを鎮める為に政宗の代わりにその地に置かれた蒲生氏が政宗にヘルプを頼みますが、そんな蒲生氏の元に政宗がその一揆に協力していることが書かれた書状が転がり込み、「おい!どーゆこっちゃ!」となり、再び政宗は白装束姿で秀吉の元へ。
そこで政宗はその書状は自分を陥れる為の偽物だ!と強く主張して再び命拾いをします。
正直ここまで読めない男は怖くもあるが、おもしれー男過ぎて秀吉も殺すは惜しかったのかもしれませんね☆
家康との関ケ原の「お約束☆」
秀吉が亡くなり、次の天下は誰のモノ?!戦国大名東西大乱闘!「関ケ原の戦い」が始まり、その中で政宗は徳川家康側(東軍)に付き、家康から「この戦いで政宗が勝ち取った領地は全部上げるから頑張ってね」という『100万石のお墨付き』のお約束をしますが、関ケ原の戦いが終わった後、なんと裏で一揆を煽っていたことがバレて罰として政宗は62万石だけ貰ったのでした。
その後政宗は仙台へ居城を移し、そこで仙台藩主として関ケ原の戦いで手に入れた62万石を使って神社仏閣や田んぼや畑と整え、また収穫した米などを江戸へ運ぶ運河などを整備したりと奥州の経済活動を支えていき、一番すごい時には『今、江戸にあるお米の三分の一は奥州の米だ!』とまで言われる程だったそうです。
伊達の親父殿!と懐いた家光ちゃん☆
そうこうして時は流れ、徳川家康から世代が変わり時代は江戸幕府3代将軍、徳川家光の時代になっており、その頃には戦国乱世を実際に体験した人も少なくなり、参勤交代で江戸へやって来る伊達政宗を「伊達の親父殿」と呼んで、昔の話を聞いたりしてとても慕っておりました。
料理も自分でやるなど健康に人一倍気を使っていた政宗でしたが、次第に食欲も無くなり1636年5月21日に参勤交代で江戸まで来ていた政宗が体調を崩して休んでいた所へ将軍である家光がわざわざお見舞いまでやってきましたが、家光が帰ったその3日後、5月24日に政宗は68歳でこの世を去るのでした。
因みに家光は政宗の死を父親より悲しんだとも言われています。
伊達政宗の有名な出来事!
慈悲などない?!800人を「撫で切り」!
政宗が奥州で色んな大名とてんやわんやと戦をしていた頃、伊達家を倒そうと大内氏と畠山氏が手を組んで挑みましたが逆に政宗に追い込まれ、大内氏の小手森城にいた男女800人を「自分に逆らうとどうなるか」という見せしめに全員殺してしまいます。
それを見ていた畠山氏は政宗の父親の輝宗に「政宗やべえ、助けて(泣)」と泣きつき、色んな条件の元に降伏しましたが、後日、畠山氏が輝宗の元にお礼をしに来た際になんとそのまま輝宗を拉致してしまいます。輝宗は自分が人質になっては伊達家の足を引っ張ってしまうと思い、追いかけてきた政宗に、自分ごと撃てと言い、ここで輝宗は亡くなってしまうのでした。
仙台からスペインへ!
関ケ原の戦いが終わり、政宗は仙台藩主となりそこから国外との貿易に目をつけて日本代表ではなく、なんと仙台藩代表としてメキシコやローマ、スペインなどへ『遣欧使節』を派遣します。しかしその途中で徳川家光が『鎖国』(1639年)を始め、貿易は失敗に終わります。因みにこの鎖国はペリーが来航する1854年までの約200年間続くことになるのでした。
今でも鎖国の影響で日本に帰れずスペインに残った日本人の子孫となる方がいるそうですよ。
プチ情報コーナー!
独眼竜の眼帯って着けてたの?
まだ5歳の頃に天然痘の病により右目を失明してしまった政宗でしたが、その後眼帯をしていたという記録は全くありません!
色んな作品やキャラクターイラストでは分かりやすいように眼帯をしている姿が描かれることが多いですが、当時描かれた肖像画ではあえて両目とも描いたものが多かったようです。
ハデな恰好でパレード!
1593年に秀吉が「朝鮮に攻め込む!」と言い出し『永禄の役』、政宗もそこの参加することになってのですが、なんとその際に伊達軍は他の誰よりもハデハデな戦装束で現れ、道中の人々も「えー!凄い!派手ね~!」と盛り上がり、この出来事により派手な装いを好む人を『伊達者』というようになったそうです。
時には白装束になったりド派手な恰好をしてみたり、政宗は色んなカラーを着こなすまさに伊達者ですね☆