ざっくり簡単に分かる!
『織田信長』1534年~1582年
変わり者で破天荒!戦で鉄砲を使って圧倒的勝利を治めるけど、彼を待ち受けていたのは運命の本能寺…――
目次
ざっくり「織田信長」の生涯!
大うつけ者、爆誕!
信長は1534年(戦国時代)に尾張(愛知県名古屋市)に生まれて、幼い頃はやんちゃばっかり!身分関係なく民達と一緒になって遊ぶ日々を過ごしてたから、周りの人たちからは「尾張の大うつけ者(大バカ者)」と呼ばれてました。
信長18歳の頃にお父さんの織田信秀が急死、織田家を継ぐことになりました。
相変わらずお調子者で奇行ばかりの信長でしたが、その分行動力は人一倍!
1560年 | 「桶狭間の戦い」勝利!(vs.今川義元) |
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1570年 | 「姉川の戦い」勝利!(vs.浅井長政&朝倉義景) |
1571年 | 「比叡山の焼き討ち」容赦ない勝利!(vs.比叡山延暦寺の人々) |
1575年 | 「長篠の戦い」勝利!(vs.武田勝頼) |
1582年 | 「石山本願寺の戦い」勝利!(vs.坊主) |
などなど…
色んな戦いをしては見事勝ってきました!(もちろん他にも色んな戦いがあるし、負けてるものもあるんだけどね)
天下目前の裏切り…
このように部下達も増え(信長は実力主義だったから、能力があれば身分は関係無く側に置いたよ)どんどん色んな土地を制圧していき「このまま天下取れるんじゃね⁉」という勢いに乗りに乗っていた頃…。
中国地方の毛利軍を攻めていた部下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のサポートをしに行こうと本能寺に入っていた6月2日の明け方…。
秀吉の援軍に向かっていた明智光秀が急に「敵は本能寺にあり!」と言って、本能寺へと攻めてきて、燃える本能寺の中で信長は自害した…と言われているんだ。
(けど、信長の遺体は見つかってないんだって…)
織田信長の有名な出来事!
容赦ない戦い方の革命!
信長はこの頃長崎の種子島にやってきていたポルトガル人が伝えた「鉄砲」を誰よりも早く戦いに使った人でした。
1575年「長篠の戦い」では1000丁以上(3000丁?)の銃を使って圧勝!
そして信長に「第六天魔王」という異名がついたのが「比叡山焼き討ち」事件!「姉川の戦い」でコテンパンにした浅井・朝倉コンビを比叡山が匿っていたを知って信長はその二人を出せば見逃すけど…というが比叡山の答えはNO!
それに怒った信長はその後、朝方の誰も逃げられない時間帯を狙って比叡山を攻め、女性や子供も関係無し、命乞いをする者も皆容赦なく殺し、その数は3000人~4000人とも言われてます。
新しい事大好きボーイ!
信長は「長篠の戦い」でも使った鉄砲をいち早く戦に取り入れたりと、海外からの新しい文化や技術に対しとっても関心があって、ポルトガル人から貰った地球儀を見てすぐに「地球が丸い」ということを理解したんだって。
また、各地の関所を無くして交通の便を良くして、自由に商売が出来るようにした方が楽しいじゃん!と、『楽市・楽座』を制定したんだ。
そして信長が作った有名なお城である『安土城』(琵琶湖のほとりに作った)は信長の死後すぐに燃えちゃって詳しいことは分からないらしいんだけど、天主(お城の一番上にある特別な部分)は赤だったり金色だったりとド派手だったし、城下町を作って自分の土地に住んでた武士を集めたり商人を呼んだりと、とても賑やかでした。
キリスト宣教師達にも、教会や学校を作ってもいいよ。と許すなどとても自由だったのでこの「安土城」はヨーロッパでも有名だったとか。
プチ情報コーナー!
「第六天魔王」って何?
よく信長の事を「魔王」とか「大魔王」なんて異名で呼ぶことがあるけど、一体どうしてそう呼ばれるのかというと、その戦いっぷりがあまりに恐ろしくまるで「魔王」のようだ!
…という意味でついた訳ではないようです。
実はこれ「比叡山焼き討ち」の際、仏教を支持していた武田信玄が延暦寺の復興を支援すると信長に伝え、延暦寺を焼き払った信長と敵対すると宣言する際に自分の事を「天台座主沙門信玄」(延暦寺の長だ!)と名乗ったのに対し信長は、ならば自分は「第六天魔王」だ!
と返したのが元ネタと言われております。
(第六天とは仏教世界で欲望の世界の事で、その世界の人々から信仰の心を奪い取っている魔王となるのが自分だ!という意味で言ったようだ)
けどこの記述がされてる資料は、キリストの布教をしていたルイス・フロイスが記した書記「耶蘇(やそ)会士日本通信」の中にしか書かれて無かったので、もしかしたらキリスト教布教の為に邪魔だった仏教を潰してくれそうな信長の事を過剰に記したのでは?
という噂もあるようです。
よく燃える「本能寺」!
本能寺は燃えて過去の遺物…。
と思っている人は多いかもしれませんが、実は令和のこの時代にもちゃんと「本能寺」は現存しています!
実は「本能寺の変」以降、現在に至るまで本能寺は2度燃えているんです。
1582年 | 「本能寺の変」で焼失! |
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1592年 | 秀吉の命令で移転 |
1788年 | 「天明の大火」で焼失! |
1840年 | 日恩聖人によって再建 |
1864年 | 「金門の変」で焼失! |
1928年 | 現在ある本能寺再建 |
と、このように何度も焼けては立て直して繰り返し、現在は「京都府京都市中京区下本能寺前町」に本能寺は存在しております。
そして今現在ある本能寺は、実は名前が少しだけ違うんです!
どうにも本能寺はよく燃える、その原因は「本能寺」の文字の中に「ヒ(火)」の字が二個もあるからじゃないのか?と言われ、今ある本能寺の「能」の字の横が「ヒ」ではな「去」の字の「䏻」という字が使わているんです。
もし行くことがあったら確かめてみてね☆
因みに本能寺跡地の石碑は現在消防分団の施設の前に立ってます。燃えても安心ですね(笑)