幕末で有名な人達

【坂本龍馬】ざっくり簡単!新しい日本を作る為に奔走したビジネスマン!

ざっくり簡単に分かる!

坂本龍馬さかもとりょうま1835年~1867年

坂本龍馬物語☆

鼻たれ小僧だった幼少期から、新日本を作りあげる為に色んな人達と関わって作りあげた新・倒幕の輪☆

ざっくり「坂本龍馬」の生涯

龍馬、外国を知る!

坂本龍馬さかもとりょうまは土佐国(現:高知県)に4人兄弟の末っ子として生まれます。しかしこの頃の龍馬は泣き虫でいつも周りの子供から鼻たれ小僧と言われイジメられるような子でした。(そのたび3歳上の乙女おとめ姉さんがよく龍馬をかばってくれていました)

そんな龍馬も剣術道場に通い始めてからメキメキと頭角を現し、江戸へ剣術修行へと向かうのですが、なんとその頃(19歳)に日本にペリーの黒船がやって来てき他ので、龍馬は「外国との戦になったら敵を倒します!」と意気込んだ手紙を実家に出したりしてました。

しかし、1年が経って土佐に戻ってきた際、龍馬は河田小龍かわだしょうりゅうという人に外国の話を聞いて、外国に興味を持つようになるのでした。

外国と渡り合う為には…

土佐に帰ってきた龍馬はそこで「外国と戦う為には今の幕府じゃなくて、朝廷を中心とした国にした方がいいよね」という、尊王攘夷そんのうじょういの思想に基づいて武市半平太たけちはんぺいたが作ったグループ土佐勤王党とさきんおうとうに入るのですが、このままここにいても新しい道は開けないと思った龍馬は土佐藩から勝手に抜ける脱藩だっぱんをすることを決意!

※当時勝手に藩を抜けるのは罪だったので、家族は龍馬の行動に気を付けていましたが、いつも味方をしてくれていた乙女姉さんは龍馬脱藩の際、兄権平の秘蔵の刀「肥前忠弘」を龍馬にあげたと言われています

28歳で藩を抜けた龍馬は江戸で、アメリカに行ったことのある勝海舟かつかいしゅうという人に出会いそこで外国の話を聞き。「これからは外国と張り合う為ににはただ外国と戦うだけじゃなく、世界に通用する日本を作っていかなきゃダメなんだ!」と感動したのでした。

龍馬、会社も同盟も作るぞ!

龍馬は幕府の役人である勝海舟の海軍操練所かいぐんそうれんじょ(勝塾)」で外国と対等に渡り歩く為の技術(船の操縦など)を勉強していたのですが、倒幕を目論む輩が塾生の中にいると知った幕府からの命令で閉鎖され。

すると龍馬は薩摩藩さつまはん西郷隆盛さいごうたかもりの援助もあって長崎の亀山に、日本初の商社亀山社中かめやましゃちゅうという会社を作るのでした。そこでは主に貿易や開拓、それに外国語を学んだりと色んなことをしていました。

このままの日本ではダメだと考えていた龍馬でしたが、同じく「幕府はいらない!倒そう!」と考えている薩摩藩さつまはん(鹿児島)」長州藩ちょうしゅうはん(山口)」の仲がとても悪く、同じ考えを持っているなら仲良くして協力をすべきだ!と龍馬は薩長の2つの藩を仲直りさせようとします。

しかしお互い譲れないところもあって交渉は難航、それでも龍馬は2人(薩摩の西郷隆盛と、長州の桂小五郎かつらこごろう)の仲を取り持ち盟約を結ばせることに成功するのでした。これを薩長同盟さっちょうどうめいと言います。

しかしその功績のせいで龍馬は「幕府の敵を強大にしやがった!」と幕府から目を付けられ、薩長同盟が成立した二日後、龍馬は泊まっていた寺田屋てらだやで幕府の役人に襲われてしまいます。(寺田屋事件)そこで左手に大きな怪我をしたものの何とか逃げた龍馬は、そこで助けてくれたおりょうと共に療養の為に薩摩の霧島きりしま温泉へと行き、そのまま霧島山まで行ったりと、日本で初めて新婚旅行をしたとか。

権力を朝廷へ「大政奉還」!

そんな中、倒幕を目論む長州藩へ幕府が攻めていった戦い長州征伐ちょうしゅうせいばつで龍馬は亀山社中としてイギリスから買ったユニオン号で長州側について応戦!この一連の流れをみていた土佐藩は、「龍馬、経済人としてすげぇな…」と考え、自分達も仲間になりたい!と土佐藩も亀山社中に加わり、名前を海援隊かいえんたいと変えます。

しかし土佐藩は「幕府は無くしたいけど、武力での討伐はしたくないな…」と考えており、龍馬に相談をしたところ、龍馬は船の中で大政奉還たいせいほうかんを含めた新しい国に必要な策船中八策せんちゅうはっさく(船の中で考えた八つの案だから)を提案!

これを当時の徳川幕府15代将軍の徳川慶喜とくがわよしのぶに提案して、政治を行う権利を幕府から朝廷に返す大政奉還たいせいほうかんが成立するのでした。(1869年10月14日)

こうして約260年続いた江戸幕府は終わりを迎えたのでした。

↓江戸幕府はこうして始まった!初代徳川☆

幕府も無くなった。日本もどんどん外国に追いついて肩を並べられるような強い国へと成長していく、まだまだやる事はいっぱいだ!…と、思っていた矢先。

龍馬は大政奉還が成立したその一か月後、11月15日(新暦12月10日)。龍馬は近江屋おうみやという隠れ家で何者かによって暗殺されてしまいます。

その日は奇しくも龍馬の誕生日と同じ日でした。

坂本龍馬の有名な出来事!

倒幕の大きなキッカケ「薩長同盟」

同じ目的(倒幕)なのに薩摩と長州は何故仲が悪かったのかと言いますと。

①まず長州が強い『尊王攘夷』の考えを訴えていて、朝廷からの支持を受けて一歩リード!

②すると薩摩が会津藩に同盟を組み、「ただ幕府を倒すんじゃなくて、幕府と朝廷が一緒になって変わっていけばいいじゃん」という公武合体こうぶがったいという考え方を出し、長州の立場が悪くなっていきます。

「禁門の変」という事件をキッカケに薩摩と会津に痛手を負わされた長州の憎しみはどんどん大きくなるが、幕府からの「長州征伐」も受け、どんどん追いやられていく長州。しかしその頃には薩摩も、公武合体の形もちょっと厳しかな…?と考えが変わってきていました。

↓会津には新選組もいて長州は容赦ない新選組の攻撃に腹を立ててた!(禁門の変)

こうして「幕府の古いシステムはもういらないよね」という同じ考えを持ってるはずなのにいがみ合ってる薩摩と長州の溝はどんどん広がっていき、二藩の仲は修復不可能。と、なっていた時に現れたのが坂本龍馬!

意地を張っててもしょうがないじゃないか!と、現実的な条件を出し、西郷隆盛と桂小五郎の間に入って「薩長同盟」を結ばせたのでした。

外国を意識した新しい日本つくり!

最初こそ黒船が日本にやってきた時は龍馬も「敵が来た!いざとなったら敵を討ち取る!」と敵対心を向けていましたが、江戸に剣術修行に出て一年経って土佐へ帰って来た際(1854年)に、(土佐から漁に出て遭難の末アメリカ船に助けられアメリカ文化の中で過ごした)『ジョン万次郎まんじろうの話を聞いた『河田小龍』と出会い、「外国は発展してる!日本は船を買って貿易をして外国に追いつくべきだ!」と言う教えを聞きます。

その後28歳で脱藩した先で、アメリカに行った経験からこれからは世界を目指さねば!という考えを持つ『勝海舟』に会ったことにより、龍馬の外国に対する向き合い方が固まっていきました。

龍馬は勝海舟の弟子として行動範囲を広げ色んな人物と出会っていくことになるのでした。

プチ情報コーナー!

突飛な奥さん「お龍」!

龍馬と初の新婚旅行をしたとして有名な奥さん『おりょう

フルネームは楢崎龍ならさきりょうと言い、裕福な家の娘さんでしたが父親が亡くなった後はとても貧乏になり、母が騙され妹たちが舞子や女郎に売られると知ったお龍は着物を売ってお金を作ると懐に刃物を入れて大阪に向かい、男たちに「殺せ殺せ!その為に大坂まできた!」と啖呵を切って妹たちを取り返した度胸の持ち主でした。

そんなお龍と龍馬が出会い(名前同じだ面白いね~なんて話したりして)薩長同盟を成立させた後、龍馬のいる寺田屋へ幕府の役人が暗殺にやってきますが、その気配をいち早く察したお龍は風呂場から一枚だけ羽織って龍馬に伝えにいき、不意打ちを食らうことなく応戦して逃げることに成功したのでした。

龍馬が「いつか落ち着いたら船で日本を回りたいね」と言うと「船があれば十分、家はいらない」と言ったお龍に龍馬は突飛な女だと笑い、西郷もそんな女だから龍馬は助かったのだと大笑いしたというエピソードもあるそうです。

新しいもの大好き!

龍馬が新しいもの好きだったのは有名な話ですが、その中でも「ブーツ」「拳銃」などをいち早く使っていたということ。

ブーツも拳銃も実は高杉晋助たかすぎしんさくから貰ったものだそうですが、現存している龍馬の写真には2種類のブーツが写っており、立って写っている時に履いているものは高杉から貰ったもので、座って写っている時に履いているのは自分で買ったらしいとのこと。

また拳銃に関しても最初に持っていたのは高杉から貰ったS&Wモデル2アーミー32口径6連発のものでしたが、寺田屋で使った際に紛失して次にS&Wモデル1½32口径5連発のものを購入し、龍馬とお龍それぞれ持っていたそうです。

因みに龍馬が暗殺された際に手に取ったのは兄から譲り受けた「吉行」の刀でしたが、あまりに不意のことだったので鞘を抜く間もなく、その際鞘ごと受けた太刀の傷は鞘を通して刃まで削ったそうです。

 

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たまお
学生の頃はテストの為としか思っていなかったので大の苦手だった歴史でしたが、壮大な人間ドラマだと思うと知るのが楽しくなりました!歴史に興味を抱く入り口くらいになってくれれば嬉しいな、と思うので細かい所は気にしないでくださいね ※記事で使用されているイラストは教育機関での使用は可能ですが、個人での使用、転載等は禁止しております