ざっくり簡単に分かる!
『真田信繁(幸村)』1567年~1615年
後世で人気爆発ヒーロー戦隊『真田十勇士』は創作の物語?!けど実際の歴史でも恐れられた日の本一の兵だった☆
目次
ざっくり「真田信繁」の生涯!
九度山からの脱出!急いで大阪城へ!
真田信繁(幸村)は1567年に真田昌幸の次男として生まれます。信繁は父の昌幸と共に武田信玄や織田信長、上杉氏と従える先を変え最終的には豊臣秀吉の元へとやってきます。
しかし1600年、関ケ原の戦いという秀吉亡き後の天下分け目の戦い(石田三成軍VS徳川家康軍)で真田家は石田側の西軍に加勢し、家康の三男の秀忠軍相手に見事な戦いっぷりをみせますが、結果としてこの戦いの勝者は徳川家康となり、真田家は九度山へ流されてしまうのでした。(兄の真田信之が徳川家の家臣、本田忠勝の娘と結婚してたので、その取り成しで死罪を逃れたよ)
九度山で大人しく生活をしていた信繁でしたが(お父さんの昌幸はこの生活中に亡くなりました)そこに秀吉の息子、秀頼から「家康との関係が悪くなってきました、大阪城の籠って闘うので協力してくれる方募集!」との連絡が入り信繁は、これは行かなくては!と、九度山での監視を逃れ脱走し、父の旧臣達と共に秀頼のいる大阪城へ向かうのでした。
大坂冬の陣!完全無欠の「真田丸」参上☆
1614年、大阪城へやってきた信繁は、城に籠って闘うのでは無く、もっと積極的に敵を攻めていこうよ!と提案しますがその案は却下。すると信繁は大阪城の弱点となる場所へ(三の丸南側)に戦う為の出城『真田丸』を築き上げました。
真田丸の効果は抜群!1615年1月3日の早朝、徳川の軍勢が攻め込む中、真田の策によって徳川軍に大きな損害を出すことに成功、真田側の挑発に乗って突き進み軽率な行動をとってしまった部下達を家康は厳重に注意したとか(真田丸の戦い)
実はその間にも和議の交渉が進められていたのですが、豊臣方が優勢に進む中「和議なんてしないよ!」と突っぱねていたら徳川方からの砲撃が大阪城の本丸に命中!その結果秀頼の母、淀殿の侍女8人に命中して亡くなってしまうのです。
その惨劇を見た淀殿は心が折れ、和議の申し出を受けることになるのでした…。
そして徳川から提示された和議の内容には
- 二の丸、三の丸を取り壊す。
- 城の周りの堀を埋める
- 真田丸を壊す
と言った、豊臣方に不利になる条件ばかり。それでもその内容を受け入れ最強の真田丸は取り壊されてしまうのでした。
大坂夏の陣!信繁、攻める!!
和議が進められ大阪城はどんどん丸裸になっていくのですが、その和議の間にもまたお互いの間に色々と問題が起き再戦は免れないと、1615年大阪夏の陣が始まるのでした。
実は夏の陣が始まる前に、徳川方から信繁に「信濃一国をあげるからこっちにおいでよ」と誘われているのですが、秀頼には恩がある、信濃一国で裏切る者だと思ったのか!!と激怒したとか。
真田丸も無くなり、後はもう攻める他戦う術はない!と判断した信繁は秀頼にも前線に出て闘おうと言うのですが、淀殿の反対によってそれは叶いませんでした。
夏の陣ではお互い必死の攻防戦が繰り広げられます。
仲間の軍が押し負け、進んでくる伊達軍(徳川方)の先鋒、片倉重長隊の進軍を真田軍が止めた道明寺誉田合戦(5月6日)や、豊臣方の活躍がありながらも徳川軍の圧倒的な兵力に大阪城間近まで追い込まれてしまった八尾、若江合戦(5月6日)
そして5月7日の正午に始まった天王寺、岡山合戦では真田、毛利、大野治房隊の攻撃により徳川方は多くの死傷者を出し、後一歩まで追い詰められた家康は切腹を覚悟する程でした。しかし徳川軍の圧倒的な兵力によって戦況はどんどん逆転。
撤退の途中、信繁は安居神社の境内の木に寄りかかって休んでいたところを敵兵に見つかり「この首を手柄にされよ」と遺して一騎打ちの末、最期を迎えたと言われております。
(最近の説では、この敵兵(西尾宗次)は信繁と知らず戦い、その後信繁を知っている知人によってその正体が分かったとか)
そしてその後大坂城は徳川の手に落ち、淀殿と秀頼は城内で自害、城に放たれた炎は激しく、遠く京都の町まで大坂城が燃え落ちるその炎は見えたそうです。
こうして豊臣が滅んだ後、徳川の世が始まり江戸幕府は約270年続くことになるのでした。
↓大坂の陣の後の江戸幕府は?
真田信繁の有名な出来事!
真田信繁は何故”幸村”と呼ばれるの?
真田信繁という名前より、恐らく皆さんからすると『真田幸村』という名前の方が有名でよく知っているかもしれません。しかしこの「幸村」実際に使われた形跡は無く、最後の時まで資料として残っているものとして使われていた名前は「信繁」だったそうです。
ではなぜ「幸村」の名前が有名になってしまったのかと言うと、そもそも「幸」の字が真田家本家の通時(家に代々継承される漢字)だったのと、徳川に仇なす妖刀「村正」の「村」から由来してるとも言われているようですが、これらの説は弱く、今では正しい「信繁」として語られることが多いようです。
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真田の六文銭
真田信繁と言えば真っ赤に染まった旗に描かれた六つのお金の文様「六文銭」の印が有名ですが、この六文銭になんの意味があるとかというと。人は亡くなった後に三途の川を渡る為に必要な渡し賃(冥銭)として六文の銭が必要とされていた為、この命を捧げる覚悟で挑むという「不惜身命」という思いを背負って戦っていたということですね。
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真田十勇士は創作話?!
「真田幸村」という名前が出れば、共に有名なのは幸村に仕えた10人の戦士の物語。有名なキャラクターで言えば、凄腕忍者の猿飛佐助や霧隠歳三など。真田幸村の活躍の側には彼らの物語あり!なんてそんなのカッコよすぎるじゃないか…。
と思うのですが、実はこれ創作の物語に出てくる架空のキャラクター達なのです!
元は「真田三代記」という江戸中期に生まれた真田家VS徳川の奮闘劇を描いた書記で、そこに真田十勇士の元となる武将が少し登場しておりまして、その後それらを元にした大正時代に立川文庫が出した「真田十勇士シリーズ」が大ブレイクしたものなのです。
本当にいたら面白いのに…とは思うのですが、どの時代もヒーロー的な存在には色んな物語が作られていくものですね。
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戦国のゲルニカ…
実はこの真田信繁が活躍した「大坂冬の陣、夏の陣」の二つの戦いの内の一つ、「大坂夏の陣」では、徳川方には武将黒田長政も参戦しておりました。そして大阪城が陥落、この戦いが終わった後、長政は部下に命じてこの夏の陣の様子を描かせた「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)」というものが残っているのですが。
なんとこの屏風の中には徳川方の兵や野盗が、逃げ惑う一般人を襲い盗みや人攫いをする様子などもありありと描かれているのです。一方、敵である真田信繁の活躍も描かれていたりと、徳川方についていながら徳川方の醜い様子までリアルに描かせたのは一体どういう心境だったのか、それは未だに分かっていないそうです。