ざっくり簡単に分かる!
『天草四郎』1623(?)年~1638年
年貢の不当な取り立てやキリシタンの強い弾圧にもう我慢の限界!奇跡の力で皆と反乱起こします!
目次
ざっくり「天草四郎」の生涯!(※島原の乱)
そもそも「島原の乱」って…
天草四郎をご紹介する前に、この「島原の乱(島原・天草一揆)1637年~1638年」がどう言った経緯で起ったのかを簡単に説明したいと思います。
よく「島原の乱=キリシタンの反乱」という風に思われる方も多いかもしれませんが、大きくは暴君藩主の無理矢理な年貢の取り立てにブチ切れた農民達の反乱と、それに付随してその地方に多かったキリシタンが激しい弾圧を受けていたのに腹を立てていたのが相まって、一緒になって幕府に対して起こした一揆のことを言うそうです。
それ故天草四郎はその二つの勢力が合わさった際のまとめ役リーダーとして抜擢された人だったんですね。
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扱いが酷すぎる…もう限界!
1637年、肥前国島原藩(長崎県)では「松倉勝家」という暴君藩主が農民に対して、本来の倍の年貢の取り立てを強制しており、それに逆らうと妻や娘を人質に取られたり、酷い拷問の末殺されたりとあまりに酷い仕打ちを受けていました。
このままでは自分達で食べるお米も無く餓死か、拷問されて死ぬかしかないと苦しんでいたある日、庄屋さんの身重の奥さんが人質に取られ裸で水牢閉じ込められたあげく、産まれてきた子供と共に死んでしまうという悲惨な出来事が起こり、これに農民の怒りが爆発!!
これが「島原の乱」を起こす大きなキッカケとなります。
また一方で、肥前国唐津藩(佐賀県)の飛地だった肥後国天草諸島(熊本県)には元主でキリシタン大名だった「小西行長」の影響もあってキリシタンが多く、それを現藩主「寺沢堅高」が厳しく弾圧したことにより(飢饉の被害も相まって)怒り爆発!!
これも「島原の乱」を起こすキッカケになります。
この二つの怒りのパワーが合わさった結果、この一揆は日本史上最大の一揆となります!
※島原藩の元藩主「有馬晴信」もキリシタン大名だったので、キリシタンの農民も沢山いました。
リーダー決めよう☆
2つの藩で起こった大きな一揆。
しかしこれだけ大規模になると、その絆をもっと強くする為には皆の心を引っ張ってくれるリーダーが必要だよね。と考えた首謀者たちは会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的存在だった16歳の青年「天草四郎(益田四郎時貞)洗礼名:ジェロニモ」を一揆軍の総大将にすることにしました!
そんな一揆軍に対し、島原藩主も黙ってやられるわけにはいかねえ!と兵を繰り出しますが、一揆軍の勢いが凄すぎて結局城に戻って籠城状態が続いたりと劣勢。
また天草の方でも、天草四郎率いる一揆軍が富岡城に攻め込み、富岡城主「三宅重利」を討ち取るのでした。※因みに三宅重利は明智光秀の子
そして旧主だった有馬家の廃城の原城に一揆軍が籠城。
ここで島原と天草の一揆勢が合流!その人数37,000人程。
遂に幕府始動!一揆を討伐せよ!
しかしこの異常な事態に幕府も気が付き、ついに動き出します。
幕府側は御書院番頭(徳川将軍直属の親衛隊)の「板倉重昌」を現地に派遣します。
けれど一揆軍の結束はとても強く、寄せ集めの諸軍ではどうにもこうにも上手くいかない…すると幕府側は2人目の役人として「松平信綱」を派遣します。
しかしこの状況に板倉重昌は「やばい、手柄を取られる!」と焦って進軍したところ、なんと4000人の損害を出し、本人も一揆軍の銃弾に撃たれ戦死してしまうのでした。
2人目として派遣された松平信綱は、城に立てこもる一揆軍にはもう食糧も武器も無くなってきていることを知り、兵糧攻めに切り替えます。
そして2月28日、一揆軍は食糧や武器も無くなってきて勢いが落ちている中、幕府軍の総攻撃により原城は落城。
天草四郎は討ち取られ
一揆軍は皆殺しとなってしまうのでした…。
天草四郎の有名な出来事!
天草四郎は神の子!?
天草四郎の有名なお話と言えば彼が起こした幾つかの「奇跡」ですよね。
「盲目の少女に触れると目が見えるようになった!」
「海の上を歩くことが出来た!」
「鳩が飛んできて天草四郎の手の中で産んだ卵から聖書が出てきた!」
など、いろんな奇跡の逸話がありますが、恐らくこれらは天草四郎のカリスマ性を上げる為に作られたお話だと言われております。
また過酷な状況下にあった農民達に、ママコフ神父が「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう」という予言をしたと言われており、色んな情報が集まって天草四郎という青年は皆の精神的支柱として活躍したようです。
屈しない心
一揆軍が籠城をした時、松平信綱は「強制的にキリシタンの戦いに入れられた人は、今降伏すれば助けてあげるよ~」と言った矢文を城に送ったり、天草四郎の母親や姉妹に降伏を促す手紙を出させたりもしたが、一揆軍は断固拒否してその結束は崩れなかった。
しかし最終的に天草四郎が討ち取られた際、幕府側は天草四郎の容姿をよく知らず、同じ年頃の男子の首を幾つか母親に見せ、狂ったように嘆いた一つの首を天草四郎だと断定したそうです。
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その後どうなったの?
こうして幕府軍の勝利という形で島原の乱は終わりを迎えますが、この一揆を起こすキッカケになったとして、松倉勝家は幕府側から裁かれ切腹ではなく、罪人が受ける裁きと同じように「斬首」されるのでした。※大名で切腹ではなく斬首はこの事例だけだそうです。
またキリシタンを酷く弾圧していた寺沢堅高も責任を問われ領地を没収されるだけで収まったのですが、結局メンタルがやられて最終的には自害してしまいます。
そしてその後、荒れ地となった天草の地を次にやってきた外様大名の山崎家治が立て直し、次に代官としてやってきた鈴木重成が今までの年貢の取り立てを調べ「これはどうにかすべきだ!」と幕府に申し出て、なんと抗議の為に自刃までしたそうです。
同じ役人でも暴君もいれば、農民の為に命を持って訴える人もいるんですね。
神になれたキリシタン
島原の乱の後もキリシタンは厳しく弾圧され、有名な「踏絵」などを使って残ったキリシタンを探し出しては処分するなどされていたようです。
ここでご紹介したいのが、スピリチュアルな人が歴史的に有名な場所を見てみたら!というエッセイコミックで、秀吉の禁教令でキリシタン達が処刑された跡地「26聖人殉教記念碑」へ行った時のエピソードがとても面白かったので是非!ご一読してみてください!
↓処刑されたキリシタンは何を思う…?
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